色あせた黒のカラーコード
朝、服を着ていざ駅に向かって歩き出してみると、合わせたはずのズボンと靴の黒の色が違うことに気づく。
あーあ、失敗したなあ。室内でみたときは同じ色にみえたのに。
太陽の光に照らされると、色褪せてしまった黒が赤みを帯びて、そのモノがなんだかとんでもなく古いものになってしまったような感覚になる。
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お風呂の鏡で顔でを見ると、それはもうほんとうに自分が嫌になる。輪郭、二重の幅、パーツの配置、皮膚の状態。わずか100ルクスの明かりにもかかわらず、白いお風呂場の壁に囲まれてしまって、全部が明るく照らされてしまう。すみずみまで。あーあ、これが現実なんだなあ。と突きつけられる。
一転して、電車の窓にふと映る時とか、薄暗いバーのトイレとかで見る、あまり鮮明じゃない自分のことは、結構いいじゃん、と思ったりする。
曖昧であるというのはなんと都合がいいのだろう。脳が勝手にいいように信号を受信して、勝手に足りないところを補完してくれる。感覚的に。都合よく。
同じように、他者のことも、曖昧なままのほうが好きなこともある。知らないところは、脳が勝手に都合よく解釈してくれる。
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よい思い出のなかで死んでしまった人は、それ以下にならない。
もっと深く知っては、そうはならなかったこともあろうに。
好きな人に告白できないまま終わった恋もまた、いつまでも美しいままだ。
付き合っていたら飽きていたかもしれない。
もし、などという仮定は空をつかむようか話であるし
もちろん、より深く知ることでより深く好きになることもあるだろうが、
スタンダールでいうところの結晶作用におくならば、そういったことは少ないんじゃないだろうか。
そういうことがあるなら、それはまさしく運命の相手というか。
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わたしは高校生のとき、英語の先生が大好きだった。
年齢はよく覚えていないけれど、確か定年間際なおじさん。
いつもにこやかで笑顔をたたえて・・・なんてことはなく、どちらかというといつも眉間にしわを寄せているような人だった。あだ名は悪代官。くだらないことは鼻で笑い、時々にやりとする。
だけど、わたしと、周りの友人の女子たちは、この悪代官のような先生がほんとうに大好きだった。
まず、かの人はわたしたちを名前で呼ぶ。
それは何気ないことなんだけれども、たぶん、じわじわと少しずつわたしたちの心に染み込んでいった。そして好きだった。
その影響からか、わたしたちもかの人のことを陰では、みゆきさん(仮名)と呼んでいた。本人には怖くて言えなかったけど、クラスの誰一人として。
みゆきさんの頭はちょっとつるつるしていて、あるとき、その頭にハエがとまって、みんなで必死に笑いを堪えたりもした。
そして、みゆきさんは廊下で出会う度にわたしに構う。持っているプリントを丸めたもので頭を叩かれたり、「なにニヤニヤして」と小言を言われたりしていた。(構ってもらえて嬉しいのでニヤニヤしてしまうのは仕方ない)
わたしは、高校の時、学年のいろんな女子グループを見るにつけて、友だちとは、自分の地位を守るためのステータスなんだと認識していた。ある女子グループが幅をきかせていたりとか、とにかくグループ、グループだった。そんな秩序にうんざりで、ただ純粋な好意とか愛情とか友情とか、そんなものに憧れていた。
だから、きっと、みゆきさんが構ってくれることがすごく嬉しかったんだと思う。みゆきさんにとって生徒のひとりにすぎないわたし個人に構うメリットなんてなにもない。だから、構ってくれるそれを愛情だと感じて、そんなみゆきさんが大好きだった。
みゆきさんがくれる愛情は、冷たいわたしの心の太陽だった。
極めつけは、いつだったかの定期テストでみゆきさんが、わたしの名前をテストの中に登場させた。これには内心かなりドキドキした。ドキドキしすぎて正直テストどころじゃなかった。どうしてくれよう。
もちろん、わたしだけじゃなくて、クラス全員の女子の名前が登場したのだが、わたしだけが表面で、ほかの子たちは全員裏面だった。イニシャル順にしようということで単純にわたしだけがAだったので、という理由かもしれないが、そんなことはどうでもいい。わたしにとっては、わたしだけが表面だったことが泣きたくなるくらいドキドキした。
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この春で、高校を卒業して、もう約7年になる。高校を卒業して以来、みゆきさんには会っていない。だけど毎年、1年に何度かみゆきさんのことを思い出して会いたくなる。
あのときわたしは特別だったのだろうか。
今でもわたしのことを覚えてくれているだろうか。
わたしだけが特別だったらいいのに。